「ステータス消費」から「つながり消費」へ

佐々木俊尚さんの著書「キュレーションの時代」に「記号消費」が消滅して、「つながり消費」が台頭しているという表現がありました。
これは、社会構造の変化が僕たち生活者の消費性向を変えたということを、とてもうまく説明しています。

「記号消費」とは、「ステータス消費」のこと。つまり地位を誇示したり、その地位へのあこがれが消費のモチベーションになっているというものです。

たとえば、その昔「いつかはクラウン」という名コピーがありました。
「今はカローラに乗っているけど、課長に昇進したらコロナ、そのうちいつかはクラウン」、という具合に、車のグレードを自分の出世、つまり社会的地位の向上に重ね合わせるという、まあ今となっては気持ちの悪い感覚を、生活者みんなで共有していたのです。

バブル最盛期の1989年に銀座ワシントン靴店が「男は靴で立ち上がる」というシリーズ広告を展開しました。たとえば、こんな雑誌広告。
「E航空15年目の谷村氏は、最近ヴィトンとワシントンしてます。まず宿。東京の場合は、成田からほどよく離れたトウキョウベイのシェラトン・グランデが氏の常宿である。愛用のヴィトンを片手にチェックイン。時にダブルの部屋をリザーブしたりもするが、詮索するのは野暮というものであろう」

うーん。寒い。
でも、当時は僕もこういう世界に憧れていた。認めます。。

しかし、なぜこういう価値観が「寒い」と感じるようになったのでしょうか。
それが、社会構造の変化によるものだというのです。

日本では、農村から始まり、戦後は企業が社員をまるごと抱え込み、「ムラ社会」的な社会構造を築いてきました。
「同じ釜の飯を食った」「仕事も酒も遊びも一緒」というような全方位的な交際が当たり前で、そのムラ社会の中で、自分の地位を確認するものが「ステータス消費」だったわけです。

しかし、1990年代以降、終身雇用の崩壊などから「ムラ社会」という価値観が消滅していきます。
一生同じ会社に骨を埋めるというような考えも薄まり、仕事、飲み、趣味、家族というような別々の関係性を多層的に維持しながら自分の地位を確立していくようになったわけです。

「ムラ社会」は、息苦しいコミュニティではありますが、それが当たり前だと割り切れば、それはそれで、自分を位置づけるには楽な関係性でした。
現在は、こういった多層的な関係性の中において、逆に自分の位置づけが非常に不安定な状況にあるというのも事実です。

「ステータス消費」に象徴されるように、人の消費行動は、自分と社会との関係を確認するという行為でもあります。
現在の不安定な状況の中で、自分と社会との関係性を確認する、新たな消費行動が「つながり消費」だというのです。

商品の機能そのものより、その商品に共感し、つながりを確認し、承認されたいというモチベーションから消費するというものです。

たとえば、こだわりの眼鏡店や、パン屋などでは、その顔が見える作り手に共感して常連になったり、スターバックスなども、コーヒーそのもののおいしさもありますが、そのおちついた空間を共有したいというようなことが大切になっているわけです。

つまり、「モノの消費からコトの消費」へ。「購買から参加」へ。
最近の言葉でいうと「所有からシェア」というようなつながり消費に、世の中がシフトしているということなのです。

最近のCM、複数のタレントがわいわいやっているシーンが多いですよね。
あれは「自分もそんな仲間に入りたい、つながりたい」っていう気持ちをくすぐっているんです。

僕自身、車も手放し、ブランドや高級レストランなどにも全く興味がなくなり、地元のいきつけ店で飲むということに幸せを感じるようになりました。

というか、僕みたいに、ブランド品なんかに憧れていた時代を懐かしいと感じること自体、すでにオヤジ世代である証明みたいなもんで、そもそも今の若い人たちって、「ステータス消費」なんてものを意識したことがないのかもですね。